「知性」というと、学校の成績だけで考えられがちで、紙と鉛筆、それに口から発する言葉を鍛えれば身につくものと捉えられてしまいます。

しかし、それは官僚制度(民間のサラリーマンを含む)に基づく現代社会特有のものです。「知的な職業」と言われるものは、大概コンクリートに代表されるような、計算されつくされて造られた人工物の中に囲まれて行われています。


ところが、動物としてのヒトは、実は石器時代から進化していないのだそうです。石器時代には紙や鉛筆もありませんし、試験どころか文字もありません。

ですので、石器時代における知性とは様々な体験に基づき、五感をフルに使ったものだったのではないでしょうか。


一方で、現代社会での「知性」は、言葉、特に文字に偏重しています。たとえ口頭で話していても、「知的な話」というのは、文字情報から得て考えるものになっています。そこでは、論理性の強さが重視されます。

それはなぜか、と言えば、現代の科学というものは、論理的に合っていれば、たとえ実際に見たり触れたりすることができなくとも、「正しい」と見なされるからです。

例えば、原子や電子、中間子、素粒子などは、見ることも触れることもできません。しかし、そういうものがある、と仮定すると、様々な事象が説明できるわけです。

ですので、ある理論や公式から説得的に導くことができれば「正しい」と、いわば演繹的に現代の科学は成り立っています。

教育において問題なのは、演繹的で抽象的な説明が増えるにつれて、子供たちの「勉強なんか何の役に立つの?」という疑問は増えていくことです。なぜなら、抽象的な説明が延々と続けば、具体性が乏しくなるため、実際の生活からかけ離れているように思えてくるからです。


ここで先ほどの石器時代の話に戻ってみましょう。

もともとは、知性というものは五感をフルに使って体験して得られた結果です。そもそも理論や公式というものは、様々な体験から得られた情報から、共通の法則を見つけ出したものです。いわば、帰納的なわけです。色々な物が落ちたり引き寄せられたりする様子を見ていなければ、ニュートンは万有引力の法則を発見できなかったのではないでしょうか。


ですので、一見学習には全く関係ないような体験を沢山重ねていると、学校でなら5教科の内容も自ずから分かりやすくなっていきます。なぜなら元々理論や公式は様々な体験から得られた情報で作られたものですから、様々な体験をすることは、理論や公式が導かれるまでの過程を追体験することになるからです。物を投げる体験をしていれば、遠心力について理解しやすいはずです。

ただ、「体験」といっても、習い事だけを意味するわけではありません。その辺で走り回ったり、自然に触れたり、へんちくりんな工作をしてみたり、あるいは反対に分解をしてみたり。そうした「遊び」もまた、大変重要な体験です。折り紙などは、数学の図形問題を理解するのに極めて役立ちます。

なので、遊ぶこともまた学習にとって大切です。「よく学び、よく遊べ」です。

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